
「吉祥寺」というお寺は文京区本駒込にあります

本駒込にある「吉祥寺」の山門
実は地名の由来となった「吉祥寺」というお寺は、現在は文京区本駒込にあります。
このお寺が武蔵野市吉祥寺の地名の由来なのです。
「吉祥寺」の寺院名の由来
寺院名の由来は、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城するとき発見した金印(銅印とも)です。
現在の和田倉門付近で井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印を見つけ、これはめでたいと「吉祥庵」を建てたのが始まりと言われています。
後に「吉祥寺」となり、徳川家康の時代に和田倉門から水道橋へと移転しました。
そして江戸時代の大火事によって燃えてしまい、現在の駒込で再建されたのです。
吉祥寺の境内には、現在の駒澤大学の前身である学林「吉祥寺会下学寮」があったことでも知られています。
ちなみに水道橋は一時、吉祥寺橋と呼ばれていたとか。
武蔵野に吉祥寺村が誕生するまでの歴史

旧吉祥寺村の看板の付けられた時計台(武蔵野市立本田東公園)
武蔵野村の開村100年記念事業で掲げられた時計には、旧吉祥寺村と書かれています。
平成25年に本田東公園がリニューアルされたときに再度設置されたもの。
別に吉祥寺村時代の看板というわけではないですが、数少ない「吉祥寺村」の存在をしのばせる一品です。
武蔵野と人類の歴史を振り返ってみましょう。
旧石器時代から江戸時代になるまで

吉祥寺で出土した石器 武蔵野ふるさと歴史館にて
井の頭池周辺からは縄文時代の遺跡(約4500年前~約3700年前の住居跡)が発見されています。
旧石器時代の石器(約3万年前~約1万5千年前)もみつかっています。
貴重な水場である井の頭池のほとりには、大昔から人が暮らしていたんですね。
吉祥寺南町からも、弥生時代(約2400年前~約1700年前)の土器のかけらが見つかっています。
ですが、江戸時代以前は武蔵野市にはそれほど人は住んでいなかったようです。
井の頭池は窪地です。水はあっても高度が低く、田畑に利用するには不向きだったんですね。
草ぼうぼうの、野原が広がっていました。
江戸時代になってから
吉祥寺一帯は牟礼野(むれの)・札野(ふだの)と呼ばれていました。
現在の三鷹市に、「牟礼」の地名が残っています。
この一帯には、茅(かや)と呼ばれる植物がたくさん生えていました。
茅ぶき屋根の茅です。チガヤ、スゲ、ススキなどの植物のことで、肥料作りなどにも用いられる役立つ植物です。

田んぼの脇に生えている茅
そのため、幕府御用の茅をとる「茅刈場」でした。
「御札茅場千町野」略して札野と呼ばれていました。
「御札茅場」は、「幕府御用之茅」という札が立てられていたことから。
「千町野」は、広大な土地であることから。
また、将軍家や大名が鷹狩りをする「鷹場」🦅でもありました。
鷹を狩るのでは無く、鷹を使って鳥やウサギを狩ることです。
三鷹の地名の由来も、この鷹狩りから来ています。
1653年に、江戸の水不足解消のために多摩川から水を引いた「玉川上水」が開通しました。
武蔵野台地を横断する玉川上水は、江戸の水源としてだけでなく、武蔵野の発展にも大きく影響します。
明暦の大火による都市計画
1657年(明暦3年)の明暦の大火(めいれきのたいか)で「吉祥寺」の門前町が焼失。
振り袖に付いた火が燃え移ったという話があり、振袖火事とも呼ばれています。
さらに翌年の大火で「吉祥寺」も焼けてしまいました。
明暦の大火は、死者10万人とも言われる江戸時代最大の大火事で、江戸城の天守も焼失。
幕府はその後、大規模火災の起きにくい都市作りを進め、道幅を広くしたり、延焼を防ぐための空き地を作ったり、寺社や町人を郊外へ移転させたりしたのです。
「吉祥寺」は駒込へ移転したのですが、周辺の住民も一緒というわけにはいきませんでした。
そこで幕府が用意したのが、牟礼野・札野だったのです。
燃えやすい茅葺き屋根も禁止としたので、茅刈場が必要なくなったのもちょうど良かったのでしょう。
1659年(万治2年)に、武蔵野の地に水道橋の吉祥寺門前町の住民が集団移住してきました。
五日市街道を挟んで、各家に短冊状の細長い土地が与えられたのです。

短冊状の区分けの影響で、今でも吉祥寺にはまっすぐな道が多い
そこで暮らすことになった人たちは、「吉祥寺」にちなんで新しい住まいを吉祥寺村と名づけました。
その後、武蔵野市になるまで
江戸時代が終わり、明治時代になると廃藩置県(藩を廃止して府県を置く政策)が行われました。
このころ吉祥寺村は、品川県に入っていました。
その後、東京府→神奈川県へと編入されます。
まずは武蔵野村へ
1889年に市制・町村制にともない、吉祥寺村、西窪村、関前村、境村及び井口新田飛地が合併して、武蔵野村になりました。
吉祥寺村は、神奈川県北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺となったのです。
1893年に三多摩全域が東京府へと入り、東京府北多摩郡武蔵野村となりました。
1923年に関東大震災が起こると、被害の少なかった武蔵野村へたくさんの被災者が移り住みました。
その後も人口が増え続け、農村から住宅地へと変わっていったのです。
つぎに武蔵野町へ
1928年に武蔵野村が武蔵野町になり、東京府北多摩郡武蔵野町大字吉祥寺となりました。

東京府北多摩群武蔵野町吉祥寺の表札
そして武蔵野市に
1947年には武蔵野市となり、東京都武蔵野市大字吉祥寺に。
1962年に町名が整理され、吉祥寺本町、吉祥寺東町、吉祥寺南町、吉祥寺北町、御殿山、中町の6つに分割され、現在に至ります。

吉祥寺が6つに分割される前の表札
吉祥寺村の人たちはどこから来たのか?
開墾者の宮崎甚右衛門の子孫で郷土史家としても知られた宮崎勇さんは、「吉祥寺」が元あった水道橋の住民ではなく、「吉祥寺」の移転先である駒込の住民が牟礼野・札野へ移住させられたと認識していたようです。
「吉祥寺を駒込に再建するというので、駒込の人々が、郊外へとおいやられました。」
(武蔵野界隈むかし語り)
江戸時代後期に幕府によってまとめられた地誌『新編武蔵風土記稿』にも「江戸駒込吉祥寺ニ住セシ浪士佐藤定右衛門宮崎甚右衛門」とあります。
ただ、村の名前にするほど「吉祥寺」に愛着のあったことを考えると、多くの住民は「吉祥寺」が元あった水道橋に住んでいた人々だと考えるのが自然でしょう。
このあたりのいきさつはややこしいので、新編武蔵風土記稿が間違えている可能性もあると思っています。
武蔵野市としてもそう判断しているのか、市の資料でも水道橋の吉祥寺門前の人たちが移り住んだと書いてあるものばかりです。
吉祥寺村のはじまりを説明する看板のある「宮本小路公園」

武蔵野の雑木林をイメージした宮本小路公園
開墾者の子孫の宮崎勇さんは、2010年に91歳で亡くなりました。
その宮崎さんの所有していた土地は、現在は「吉祥寺の杜 宮本小路公園」として吉祥寺の人々の憩いの場となっています。
「宮本小路」という道が隣接しているのですが、これは宮崎家の本家があったことからそう呼ばれているそうです。

短冊状の土地の利用法を示す看板
短冊状の細長い土地は、家→畑→林と使われていたんですね。
ちなみに、吉祥寺駅に直結する「キラリナ京王吉祥寺」のガラス張りのデザインをよく見てみてください。
細長く短冊状に区切られた吉祥寺の街割りを再現したものなんです。

吉祥寺の町並みを再現したキラリナ京王吉祥寺の外装
吉祥寺駅周辺をランダムに区切る街割りを、当ビルの顔となる壁面に再現。自然と街、所狭しと広がる路地など、街の発展とともに広がった、人の生活を感じる吉祥寺らしい街並みを表現しました。
武蔵野市の歴史を振り返る「武蔵野ふるさと歴史館」
武蔵野ふるさと歴史館は、武蔵境駅から徒歩で12分。ちなみに常設展は撮影OK!📷
歴史や文化の学習活動に使える市民スペースは、ちょっとした図書館のようになっていて、武蔵野市や他の地域の歴史を学ぶことができます。📚
武蔵野ふるさと歴史館

武蔵野の歴史を振り返ることができる「武蔵野ふるさと歴史館」
